生きている証明書

アクセスカウンタ

zoom RSS 演奏とその批評

<<   作成日時 : 2006/09/26 20:09   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0

 演奏とその批評は、離れられない関係にある。良い批評もあれば、そうでない批評もある。演奏を聴き、その評論を読めた時は(ほとんどないが)幸せというべきだろう。

 内田光子のピアノ・リサイタルを音楽評論家・平野昭という人が批評していた。(9月26日「毎日夕刊」)

 これを読んで、そうでない批評をはっきり見せ付けられた。リサイタルは聴いていないが、ここに書かれていることは「そうでない批評」といわざるを得ない。

 始めにベートーヴェンの平野昭観があって、それを物差しにして合うか合わざるかを論じている。何らかの物差しを自己の判断基準に用いることは良いのだが、それが絶対ではないことぐらい評論家である以上当然のこととして持していなければならない。

 内田光子の演奏をああでもない、こうでもないと批判しているが、その物差しは自己のベートーヴェン観でしかない。酷評に近いが見当違いも甚だしい。

 内田を聴いて見ようとCDを探したが、生憎ベートーヴェンはなく、モーツアルトのピアノ・ソナタ第10番K.330と第13番K.333(他に小品2曲)の1枚だけだった。それを聞きながら、これを書いている。

 最後の締め「満場の聴衆の大喝采は内田光子の演奏スタイルに魅了されたのであろうが、少なくとも筆者は彼女のベートーヴェンに酔うことはできなかった。」とあるが、これは何だ。演奏スタイルに魅せられれば解釈も含めた演奏そのものに魅せられたのではないか。内容がないところにスタイルはないであろう。

 聴衆が理解できたことを、この評論家は自己の物差しがある故に理解できなかったに過ぎないことを言っている。ベートーヴェンはああだ、こうだ、と言っているがファンとして言わせてもらえばベートーヴェンを決め付けないでほしい。

 今、ロンドン、ヘンリー・ウッド・ホールで録音された内田のモーツアルトを聞く限り、曲に対する研究は評論家の遠く及ぶところではないと思う。一体歴史上演奏家を育て上げた評論家はいるのだろうか。

テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
演奏とその批評 生きている証明書 /BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる