音楽と鑑賞と評価基準

 ウィーンのムジークフェラインザールの音響は素晴らしいという。渡辺裕東大大学院教授が興味ある論考を新聞に寄せている。04年10月14日と旧聞に属するが、ご覧になった方もおられると思う。
 ムジークフェラインザールが素晴らしいと思うのは、音響に関するわれわれの価値基準自体がこのホールを基準にしているからであって、どこか他に客観的な基準があってそれに照らして素晴らしいと思っているわけではない、というのである。「作られる判断・評価の基準」と題する論考は、だからどんなホールを持ってきても、造ろうとしても、そうである限りムジークフェラインザールに近づくことはできても、越えることはできないという。
 また、「乱暴なことをいえば」と前書きした上で、ドイツが他国の追従を許さない「音楽の国」だというのも評価の基準をドイツにおくとそうなるのだという。18世紀以前はドイツは音楽では後進国で、イタリアが先進国であった。音楽といえば声楽であったところ、ドイツは純粋な器楽こそが音楽の基本であると、「逆転の発想」を生み出した。そして、純粋楽器こそ「至高の精神の高みを表現した価値の高いもの」との思想を流布させた。
 ドイツが音楽の先進国になったのは精進を重ねてイタリアを抜いたのではなく、「何をもってすぐれた音楽とするかという価値基準そのものを転倒させることに成功したからに他ならない」という。
 グールドのバッハを聞いて育つとグールドがバッハの判断基準になりうるという。カラヤン馬鹿の私はカラヤンが評価の基準になっているかもしれないのだ。多様な判断や評価の可能性に自ら蓋をしてしまうことになりかねない愚行というべきだ。
 筆者渡辺裕がもっともいいたかったことは最後の次の引用であろう。
 「意識的にメディアや言論を操作して人々の価値基準自体を一方向的に誘導してその上に乗ってしまうような人が現れると、相当に怖いことが起こる。今の総理大臣に「代わる人がいない」という理由でなかなか支持率が落ちないということの理由がそういうことだなどとはあまり思いたくないのだが……。」(毎日新聞04.10.14)

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